ちょうど私も日本に一時帰国していたので、2人で北茨城に行ってみることにした。
調べたのはカーナビに入力するための旅館の住所だけで、あとは行き当たりばったり
適当に行こうということで、満開の桜が咲く隅田川沿いの首都高と、うって変わって
周りに何も無い常磐道をぶっとばすこと3時間。北茨城市に到着。
■人口:約44,000人
■有名なもの・人:あんこう、海の幸、岡倉天心、野口雨情(シャボン玉で知られる童謡詩人)
常磐道を降りて、最初に向かったのが五浦(いづら)海岸。
私自身はこの海岸を知らなかったけど、母親が震災後のニュースで五浦海岸の六角堂なる
建物が津波で全壊・流失したことを知っており、その六角堂が何なのか
見に行こうということに。
五浦海岸の六角堂は、日本美術のオピニオンリーダー&思想家であった岡倉天心が
建てたもので、詳しく説明すると以下。
岡倉天心が日本美術発展のために作った美術学校で起きたクーデターのため、
校長の座を追われた後、第二の人生の地として選んだのが五浦海岸。
そこに自宅やクーデターで一緒に退学した横山大観ら弟子達のためのアトリエ兼住宅を建てた。
六角堂はその一連の建物の一部で、敷地の中で最も海に面した景観のよい場所に
建てられた岡倉天心のための思想基地。
本当に海っぱたにある六角堂 |
六角堂からの景色 |
六角堂からの景色 |
岡倉天心と言えば、なんでも鑑定団でしか聞いたことがなかったけど、
六角堂に併設されている博物館を訪ねて、私が好きな感じの文化人であることが分かった。
彼は、自分で作った美術学校を追われて以降、日本美術や日本の思想をひも解くことや
海外に紹介することに尽力し、ボストン美術館の東洋美術部長を務めたり、
アジア文化研究のために中国やインドに行ったり、精力的に活動する一方、
五浦海岸の自宅にいる時は、毎日お抱えの船頭と一緒に釣りを楽しんでいたそう。
岡倉天心の博物館でとても感動したのが、彼がインド人詩人への手紙の中に残した一節。
『私の船頭は年をとった海の民で、全生涯を海の恵みと心通わせて生きる全ての
漁師同様、水の種族の流儀で育てられた一個の哲人です。
生まれながらの詩人です。なぜなら、彼は海の神秘を危険をもひっくるめて
海を読むことを知っているからです。私達は親友で、私は彼にインドの話をしてやります。
お会いになれば、たぶん彼を好きになるでしょう。』 岡倉天心が惚れ込んだ五浦海岸の環境は素晴らしく、私自身もこんな所で毎日釣りに
出られる生活がしたいと、心の底からうらやましくなった。
北茨城の住人は、この海を愛して、この海と一緒に暮らし、その暮らしが何百年も
前から続いてきたんだろう。それが、岡倉天心の船頭のような「海の民」で、
こうした人達は北茨城だけでなく、震災で被害を受けた岩手県、宮城県、福島県に
沢山いるんだろう。
今北茨城では原発事故の影響で、近郊の海での漁が禁止されている。
震災以前、釣り客で賑わった海沿いの旅館、民宿は客足が相当減ったとのこと。
「海の民」が地元の海で自分の生業ができないことが、どれほどつらいか。
それは単に収入だけでなく、彼らの生きる意味や喜びを奪ってしまったのではないか。
都会の人間が湯水のように電気を使う便利なライフスタイルを享受してきた責任を
福島の人、茨城の人だけに背負わせてしまったのではないかと、原発の代償について
改めて考えさせられた。
北茨城だけでなく、震災で被害を受けた東北地方で、海の民達が1日も早く
ストレスなくライフワークである漁業に励むことができるようになってほしいと
心の底から願いました。
天心記念五浦美術館で食べたケーキ |
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